支援物資や画材などを車に積み込み、東北へ向かった。
同行者のマイケルは既に厳戒態勢。
私たちにも2重マスクを勧める。
福島を過ぎる頃から、高速道路のひび割れ補修が体感できるようになる。
時おり、ガクンと車が小さな衝撃を受けた。
一関より手前から高速を下り、各所の通行止め道路を迂回し、迂回し、
途中でこまめにガソリンを補給しながら北東方向、気仙沼へと向かった。
夜の10時過ぎた見知らぬ町。ナビも使えず暗くて勝手が分からぬまま、
進むこと1時間。あたりに不気味な雰囲気が漂い始めた。
過ぎ去り際に垣間見る道路脇のポールや標識が好き勝手な方向に刺さっている?
ぐにゃりととけたろうそくみたいに曲がっているのはコンクリートの電信柱?
あっ!家がガラガラ崩れている。
どうやら、被害の深刻な地域に侵入したらしい。
気仙沼に近づくに従って異常さは増した。
道路がうねり、亀裂が走る。
道路左右によけた瓦礫が転がり落ちている。
何よりタイヤをパンクさせてはいけないので細心の注意が必要。
真っ暗で全容は不明。
しかし車のライトで垣間見た道路脇の光景だけで
もうすでに大きなショックを受けた。
これは現実だろうか・・・・?
ふと気づくと、暗闇の中で波の音がした。
穏やかで、いつもなら心地よい音が、今は底知れなく怖い。
こんなに波の音が鮮明な高地だとすると絶壁?
滑って落ちたら真っ逆さまだ。
ぞっとした。
ようやく夜中に市内に入った。
明かりが見えるだけでほっとする。
美術館のある高台の駐車場に車を止めた。
ここが今夜の宿泊場所だ。
それにしても寒い。
風がビュービュー吹きすさむ。
みんなトイレに行きたい。
が、携帯トイレを出すのも億劫なほど疲れた。
それぞれ防寒具を身にまとい爆睡した。
夜明け前。あまりに寒くて目が覚めた。
この寒さの中、着の身着のまま放り出された被災者の人たち、そして子どもたちは、
防寒具も電気も火も無い間、どうやって耐えたのだろう??
そして、みんなのトイレ我慢が限界を迎えた。
トイレに行こう!
昨晩通った時は気づかなかったが、下るとすぐ、下が大きな体育館だった。
その外に、ある、ある。仮設トイレがあっちに10台。こっちに10台。
うっ、うれしい。
しか~し! そのほとんどが使用不可だったぁ~。 残酷だ。
定期的に処理されなければ満杯。それ以上は入らない。
そういう現実だった。
TVや新聞で、被災者がトイレに行きたくないから水分摂取を抑え、
健康に支障をきたす被災者のことが報道されている。
これはトイレに行きたくないのではなく、行けないのだと知った。
かくして、それなりの方法で処理した我々は、更に町へと下った。
信じられない有様だった。
地震で倒壊し、その上を高さ30メートルにも及ぶ津波が襲いかかり
ぐちゃぐちゃに壊れた車や船の燃料が引火して火の海になった
その結果がここにある。
災害などという表現は生ぬるく感じられた。
経験したことは無いが、これは戦場だ!と思った。
「原子力爆弾が落とされた跡みたいだね。」とマイケルは言った。
延々と膨大に続く瓦礫の山。
人間の無力さ。自分の無力さ。どうしようもない空漠感を感じた。
気仙沼では、七輪と炭が欲しいとあらかじめ聞いていた方にそれをお渡しし
この夏に展覧会開催予定だった美術館を訪ねた。
職員の皆さんも、家が流されたり、お母様が行方不明だったり、
言葉に尽くせぬ大変な経験をされ、今も日々、直面されている。
家を流された職員は、ひびの入った美術館の一室に住んでいる。
デスクを組み合わせてベッドを作り、
防寒のためエアーキャップのカーテンでベッドを囲んでいた。
他にも様々な創意工夫が見られ、さすがアーティストだ!
マスコミ側の視点でのみ報道されるニュース記事。
情報操作。
被災者の視点の違い。
震災前後の状況変化。
ニュースに流れない裏話。
様々な心情。
たくさんのお話を伺った。
複雑な思いと、混沌とした頭のまま、南三陸へ移動した。
志津川の被害も激しかった。
あまりに激しい津波に見舞われると、瓦礫さえもほとんど残らない。
元から何も無かったような錯覚に陥る。
ここにあった家の柱やアルバムやペットやランドセルは、
何百メートルも離れた何処かに取り残されているのだろう。
ただ、志津川の避難所は、物資も比較的豊富で、たくさんのマスコミが待機し、
最も大きな避難所には海外や全国各地の支援隊が待機して、
一つの町が形成されていた。
たぶん、志津川が悲惨だという報道がされるとそこにすべて集中するのだろう。
物資も人も、場所により相当なアンバランスが見受けられた。
こんな惨憺たる中、早朝の川岸で、一人のおじさんに出会った。
すぐ側に住む被災者で、ぼんやり川を見つめていた。
津波が押し寄せる前、この川の水が、さあーっと海の方へ引いて行ったそうだ。
その後、すごい威力で津波になって押し寄せてきたので死にもの狂いで逃げた。
何か取りに行こうとか、誰かを連れて、とか躊躇した人はみんないなくなった。
そんな極限状況を話してくれるおじさんの顔は何だかすがすがしかった。
「もう何にも無いんだから、助け合ってやっていくしかないべさ。」
欲が無い、素直な顔をしたおじさんがとてもいいと思った。
大変な状況であることに変わりは無いが、一面では、
がんじがらめになっていた経済社会や物質文明、格差などから
一瞬で解き放たれた、生物としての開放感のようなものも感じられた。
人間は強い。
子どもは希望だ。
それがそうでいられるように、
私たちがみんな力を合わせて、微力な力を最大限に活かして、
少しでも支えていきたいと思った。
written by Masako